大学の同性愛の講義で「ヘドがでるけどナ」と書いた学生

大学でもっているジェンダー入門の授業ではこの数年、学生からの要望もあって、セクシュアリティについての講義時間を増やしている。特にセクシュアルマイノリティについて。

学生の大半は、セクマイの人々についてTVに出てくる芸人くらいしか知らないし、「LGBT」という言葉の意味ももちろん知らない。最初のうちは、ゲイやレズビアンやトランスジェンダーについて嫌悪感や抵抗感をもっていることを、ミニレポート(講義で上映するドラマや映画の感想文など)の中で素直に表明する学生も少なくない。

講義も終わりに近づいた先々週と先週、映画(『メゾン・ド・ヒミコ』)を見せた。この映画では子どもから社会人、老人に至るまで、ゲイへの忌避感や差別心をカジュアルに露にする人々が登場する。最後に映画の感想と共に、「セクシュアルマイノリティへの偏見や差別をなくしていくには、具体的にどんなことをしたらいいと思うか」についても意見を書いてもらった。

まず最初に「偏見や差別をなくすのは難しい」「差別はなくならない」と書いている学生が、今年は去年より多く半分近くいた。みんなペシミスト、いやリアリストなのか。

その上で、「学校教育で正しい知識を伝達する」「メディアリテラシーをつける」「同性婚を認めるなどの法整備で社会的な仕組みを変えていく」「セクマイの友人を作ったり出合える場に行く」など、概ね穏当な意見が書かれている。

次に挙げるのもそうしたものの一つだった。

「幼少の時代にそういう教育をさせれば良い。保健体育で男女の性関係しか出さないからそうなる。男同士、女同士での~事も授業として教えて、子ども達に「これも常識の一部なんだ」とおしえこめば良い。一部ではなく広く」。

ふんふん‥‥と読んでいって、私は最後で何とも言えない気持ちになった。「はっきりいってヘドがでるけどナ」と書かれていたからだ。

この「ヘド」は、「(性)教育」に向けられているのか、それとも「男同士、女同士での~事」に向けられているのか、両方なのか。他の映画感想の箇所を読んでも判断できない。

いずれにしてもその文面からは、「こういうこと書いておきゃあんたは満足するんでしょ。でも俺はヘドが出るんだよ、悪かったな」という呟きが聞こえてきた。

ミニレポートのいくつかは、次の講義で取り上げることにしている。この学生のを読もうかどうしようか迷った。というのは、2クラス200人近くいる学生の中にゲイやビアンの人がいるかもしれず*1、該当者が聞いたら相当厭な気持ちになるだろうから。

ふと、『ヘドウィグ&ザ・アングリーインチ』の時に彼は何と書いていただろうと前のミニレポートを探したら、「(前略)フィクションであってもゲイはない、音楽がたのしくてもゲイはない、表現がすごくてもゲイはない」。やっぱりホモフォビアか。そうだったこれは酷いと思って読まなかったんだ、と思い出した。

で、今回は読むことにした。正直言ってその「ヘドがでるけどナ」という強烈な忌避感情の籠った一言は、「学校教育で正しい知識を伝達する」「メディアリテラシーをつける」「同性婚を認めるなどの法整備で‥‥」(以下略)といった想定済みの「正しい意見」よりずっと私の興味を強く引いたから、無視するわけにはいかなかった。

先日の最終授業で、何人かの意見の後にそれを読んだ。前の方の学生達が驚いて息を呑むのが聞こえ、軽くざわついた。

「たとえば、ここでもかなりの時間を割いてセクマイについて学んできたわけだけど、それも「ヘドがでる」ということかな。そう思いながらこれまで受講していたということかな。セクマイについての早期の教育が大切ということを書きながら、「ヘドがでる」と付け加えねばならなかったこの人の心理に、私はとても興味があります。今は指名しないので、よかったら後で聞かせて下さい」と私は言った。

ミニレポートは読み上げる際、氏名を公表しない(採点の対象にもしない、だから自由に思ったことを書け)としている以上、その場で名前を呼んで問うのはやめた。学生は来なかった。まあわざわざ説明しようという気があるなら、最初からああいう書き捨てっぽい書き方はしないだろう。

後で出席票を確認したらちゃんと出ていた。彼は私のコメントや学生達の反応を冷笑しながら聞いていたのだろうか。

「自分の中の差別意識と向き合って内省するきっかけができた」という学生ならよくいる。「これまで自分がほとんど何も知らなかったことに驚いた」という学生もよくいる。一方で、セクマイへの抵抗感や忌避感が消えない学生も当然いると思う。「正しい知識」は伝達できても、内心を一律に教化することはできない。

だから問題は、内心を表に出すか出さないか、出すとしたらどういうかたちで出すかということになる。

何年か前、フェミニズムを目の敵にするネトウヨ君はいたが、何度か講義を受け映画を観て考えた結果、「差別はなくならない」とは書いても、セクマイへの嫌悪感を剥き出しにする学生はこれまでいなかった。*2 そういう学生はそもそも途中から来なくなるものだ。

件の学生の出席率は非常に良く、特にセクシュアルマイノリティについてやり出した後半は一度も欠席していない。しかし単位認定レポートは出してない。

つまり彼は、あの授業がセクマイについて学ぶ場であることを承知した上で、ゲイへの嫌悪を示す姿勢を講師である私(と、もしかしたらその場にいるかもしれない同性愛者)に表明するために出席していたわけだ。

彼はいったい何に挑戦していたのだろう。

ohnosakikoさんのブログより

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